LOGIN朝食の席で、直人も先にアカウントの話をした。
「パスワード、変えた?」
「うん。知らない端末からアクセスがあったって、メールが来たから」
「会社のも?」
「個人用のだけ」
直人はスプーンを置き、スマホを見た。
「共有フォルダの接続が全部切れてる。新しいの教えて。つなぎ直しておくから」
「二段階認証にしたから、私がやらないと。あとでやる」
「そんな面倒なこと、わざわざ自分でやらなくても」
「私の原稿のアカウントでしょ」
短い沈黙のあと、直人はまたスープをすくった。
「わかった。忘れないでよ」
いつものように食器をシンクへ置き、出勤していった。玄関のドアが閉まるまで、表情は変わらなかった。エレベーターに乗った途端、誰に連絡するのだろう。考えても、確かめる手段はなかった。
木曜の午前十時、莉奈は予定どおり来た。
「先生、クラウドのパスワード、変えました?」
挨拶より先に出た言葉だった。
紗月はドアを閉め、莉奈を見た。
「どうしてわかったんですか」
「朝、共有フォルダからログアウトされていて。保存していたログイン情報が使えなくなったので」
莉奈に教えたのは、完成原稿を上げる補助作業用のアカウントだけだ。昨日変えたのは、紗月個人のものだった。
「最近、乗っ取りが多いそうなので。全端末からログアウトしたんです」
「そうだったんですね。びっくりしました」
莉奈はすぐ笑顔になった。バッグを置いてキッチンへ行き、冷蔵庫から炭酸水を出す。
「先生も飲みます?」
「私は結構です」
「社長が新しく注文したこれ、美味しくて」
手が一瞬止まった。
「この前、ここで飲んだんです」
紗月は答えなかった。炭酸水が届いたのは三日前。それから莉奈が家に来たのは、今日が初めてだった。
莉奈は、紗月がほとんど使わない背の高いグラスに炭酸水を注いだ。直人が酒を飲まない日に使うグラスだ。冷凍庫の二段目からレモンを出す手にも、迷いがない。
「私より、物の場所をよく知っていますね」
「よく来てますから。先生は書き始めると、キッチンにもあまり出てこないでしょう?」
紗月が書いているあいだ、莉奈が直人とコーヒーを飲んだり、昼食を注文したりする日は何度もあった。そのたび、二人が気遣ってくれているのだと思っていた。
仕事はいつもどおり始まった。莉奈が読者コメントの反応と前話の修正候補を読み上げ、紗月が必要なものだけ選ぶ。莉奈は紗月の文章の癖をよく知っていた。台詞が長くなったとき、どこで切るか。感情を盛りすぎたとき、どの一文を消すかまで。
その正確さを信じて、仕事部屋の奥まで招き入れたのは、自分だ。
「六十三話を開いてください」
「はい」
莉奈がブックマークからフォルダを選ぶ。カーソルが一瞬、上の『汐_個人原稿』で止まり、下へ移動した。
「そちらも開けるんですか」
「いいえ。名前が見えるだけです」
返事は早かった。
「社長が、原稿用のアカウントをつなぎ直すと言っていました?」
「いえ。今日はまだ社長と連絡を取っていませんけど」
莉奈はマウスを動かし、目をそらした。紗月は、今朝の食卓で直人と二人きりで話したことを、莉奈がどこまで知っているのか、それ以上は聞かなかった。
水を取りに行くふりで立ち、キッチンからガラス越しに仕事部屋を見た。莉奈は原稿を読んでいない。別のウィンドウを開き、スマホへ目を落としていた。
紗月が戻ると、すぐ六十三話の画面に戻った。
「ここの彼の台詞、少し弱くないですか?」
「どう直しましょう」
「水族館で指輪を捨てた場面を、もう一度使うといいと思います。あのときの言葉、あったじゃないですか」
紗月は、持っていたグラスをゆっくり置いた。
水族館の場面は、四か月前に書いて、丸ごと捨てた。サイトへ上げたことも、莉奈に見せたこともない。個人フォルダの『没シーン』にだけ残っている。
「どうして、その場面を知っているんですか」
「前に、先生が見せてくださったでしょう?」
「私が?」
「はい。ずいぶん前だから、覚えてませんか?」
莉奈が心配そうな顔をした。
「最近、忘れっぽいみたいですね。社長も、気にされていました」
「病院には行かれたんですか? 昨日、社長が心配していて」
「ええ。大したことはないそうです」
「よかった。先生がちゃんと休んでくださらないと、私たちも安心できませんから」
私たち。その中にいるのが直人なのか、会社の人間なのか、莉奈は説明しなかった。
「そうだったのかもしれませんね」
質問はそこでやめた。午後二時になると、頭痛がひどくなったと言って仕事を切り上げた。莉奈は翌週の予定を確かめて帰った。
ドアが閉まってから、紗月は個人クラウドのセキュリティ履歴を開いた。
午前十時四十七分。『汐_個人原稿』に、新しい端末からのアクセス。同じ時刻、莉奈は仕事部屋でパソコンを使っていた。
ブラウザもOSも、莉奈の画面で見たものと同じだった。フォルダを開いたあと、『没シーン』をプレビューした記録まである。
履歴を保存し、真紀に送った。
ほどなく返事が届いた。
〈確認する手段を作りましょう。実際の原稿には使わない場面にしてください〉
紗月は、新しい文書を開いた。
そして、自分の作品には入れない場面を書き始めた。
二人が結婚記念日に選んだのは、食事会を開いた日だった。初めての記念日は、怜司が戻って二か月後に巡ってきた。紗月は朝から、いつものように仕事部屋のドアを閉めた。出勤する怜司は、夕食の店を予約したとだけ言った。贈り物があるかも、何時に仕事が終わるかも聞かなかった。午後三時を少し過ぎたころ、最後の一文を書いた。キーボードの横には、タイピングの邪魔になるので外していた細い指輪がある。怜司は、仕事中に外す理由を一度聞いてから、もう聞かなかった。紗月は保存し、指輪を取って左手にはめた。誰かにはめてもらわなくても、戻す場所に迷うことはなかった。新作は、夫に裏切られた女の話ではない。長く空けていた家へ戻った女が、玄関の鍵を替え、誰にも鍵を預けずに最初の一日を過ごす話だった。恋愛も、復讐もない。担当編集者は、最後に誰か訪ねてこなくていいのかと、二度聞いた。紗月は二度とも、来なくていいと答えた。主人公は一人で夕食を取り、自分で鍵をかける。それで、十分な結末だった。完成稿を会社サーバーの個人原稿フォルダへ置き、花音へ送った。〈最終稿です。明日の午前中に確認してください〉すぐに返事が来た。〈今日は結婚記念日ですよね。今読んだら一ノ瀬さんに怒られそうなので、明日拝見します〉〈どうして怜司が、花音さんの勤務時間を決めるんですか〉〈では、私が休みたいので、明日にします〉〈それなら、承認します〉仕事部屋を出ると、リビングは静かだった。パソコンを食卓へ置き、しばらく最初のページだけを眺めた。怜司に読んでと言うこともできた。誰より、汐の古い文章を知る編集者だ。それでも今、最初に原稿を読む役割は、仕事として担当する人にあった。ドアが開いて、彼が帰ってきた。手にあるのは花ではなく、買い物袋だった。「予約したんじゃなかった?」「キャンセルした」「どうして?」「今日、原稿が終わるって言ってたから。着替えて出かけるのは、気が進まないかと思って」
怜司は土曜の朝いちばんの便で帰ってきた。玄関の音に、紗月は仕事部屋を出た。片手にパソコンのバッグ、もう片方でスーツケースを引く姿が、胸が詰まるほど嬉しかった。「おかえり」「ただいま」「ご飯は?」「食べた」「嘘なら、冷蔵庫を点検するよ」靴を脱ぎながら、怜司が笑った。「それは嫌だって言ってもいい?」「言ってみれば」紗月はケースの取っ手を奪い、中へ押した。怜司はコートも脱げず、引き寄せられた。「先に、抱きしめていい?」「もう、荷物を取ったでしょ」紗月が腕を広げると、彼が抱き寄せた。慣れた香りが触れた瞬間、三か月という数字が急に現実になった。背中に回した手に、力を込めた。「これじゃ、話せないな」頭の上から声がした。「あとで」「どのくらい?」「五分」今度は、紗月も時計を見なかった。遅い朝食を済ませ、食卓に向かい合った。怜司が延長の提案書を開いた。三か月でプロジェクトを仕上げ、その後、現地法人の原作事業を統括する。任期は最低三年。報酬も権限も、今よりずっと大きかった。「いいポストだね」「うん」「やりたい?」怜司は、聞き返さなかった。「三か月の延長は、考えてる。統括は、引き受けたくない」「どうして?」「編集より、経営の比重が大きくなる。今のプロジェクトは、自分が作りたかった仕組みだから始めた。でも、その先は、できる仕事と、したい仕事が違う」紗月は、その言葉の間に自分が隠れていないか探した。怜司は目をそらさなかった。「私のためじゃなくて?」「東京に紗月がいるのも、理由のひとつだよ」「なら、結局は私のためでしょ」「ひとつ、と言った。紗月と暮らす家へ帰りたい。それを、俺の選択に入れたらだめ?」すぐには答えられなかった。彼は提案書の業務内容を指した
東京へ戻って、最初の水曜日。玄関前に宅配の箱が四つ溜まった。新作の見本、海外版のサンプル、会社からの契約書。リビングで中身を取り出し、ビニールと紙を分けた。平らにした箱をひもで縛ると、時計は夜十時を指していた。手が止まったのは、時刻を見たせいか、玄関の束のせいか、わからなかった。怜司は、まだ仕事を終えていない。現地は一時間遅く、さっき送ったメッセージも未読だった。箱を残して、仕事部屋へ入った。原稿を開いたが、文が目に入らない。十分後に出ても、箱は同じ場所にあった。捨てるのは明日でもいい。けれど、先延ばしにしたい理由は、面倒だからではない。それを、自分でわかっていた。収納棚の下から、もう一本ひもを探していると、薄い手帳が落ちた。昔、原稿を終えた時刻を記した手帳だった。事件の資料整理のあとに返され、箱へ入れたまま忘れていた。開いたページに、短い記録があった。〈直人、ゴミ出し。23:20〉同じ文が、三日続いている。あのころの自分は、時刻を書きながら、それが何を意味するか知らなかった。そのあとには、日付、口座、車のナンバーがびっしり続いた。信じられなくて、全部記録していた手の跡だった。スマホが鳴った。〈今、終わった。電話していい?〉紗月はすぐ、通話を押した。「怜司」『うん。どうした?』「今日、水曜日」すぐに伝わった。それでも、行かないでという言葉からは始めなかった。『何をすればいい?』紗月は、玄関の箱と手帳を交互に見た。「ゴミ出してくる」電話の向こうが、少し静かになった。『話しながら、行く?』「ううん」『じゃあ、切ろうか』「うん。戻ったら、かける」『わかった』何分で帰るのかとも、電話をつないでおけとも言わなかった。紗月は手帳を食卓へ置き、段ボールとビニールの袋を持った。ドアを開けると、センサーライトがついた。怜司が点灯時間を延ば
宿舎へ向かう車の中で、紗月は怜司の手を離さなかった。この一か月、画面で顔を見て、ほぼ毎日声も聞いた。それでも、指の間から伝わる体温だけは、来なければ確かめられなかった。「記事を見て、すぐ航空券を買ったわけじゃないよね」怜司が聞いた。「その質問、三回目」「二回しか聞いてない」「空港で、顔で一回聞いた」「それも数えるの?」「うん。記事のために来たなら、どうするの?」「来てくれたのは嬉しい。でも、人に見せるためなら、少し悲しい」紗月は、つないだ手に力を込めた。「会いたかったって見せたい相手は、怜司だけ」彼が窓の外を向いた。赤くなった耳が、ガラスに映った。「どうして、そらすの?」「そらしてない」「笑ったでしょ」「運転手さんが、いるから」宿舎は、現地法人が用意した小さなサービスアパートメントだった。ドアを開けると、ホテルのように整ったリビングと、使った形跡のない食卓が見えた。シンクにはコップが一つ。洗面所には歯ブラシが一本。紗月はケースを立てたまま、室内を見回した。「一か月も住んで、どうして何もないの?」「あるよ」「何が?」「ベッドも、冷蔵庫も」冷蔵庫には水と卵と、袋入りのソースしかなかった。開けたまま、振り返った。「ご飯、食べてるって言ったよね」「会社で食べた」「週末は?」「外で」「痩せた理由、わかった」怜司がドアを閉めた。「点検しに来たんじゃないでしょ」思ったより冷たい言葉だった。紗月も、ドアから手を下ろした。「心配だったから」「わかる。でも、着くなり何を食べたか確認されると、会いたくて来たって言葉が、見えにくくなる」すぐには言い返さなかった。心配だからと薬や食事を確認されたとき、自分がなぜ息苦しくなったかを思い出し
離れて暮らす最初の一か月、二人は思ったより頻繁に話し、思ったより頻繁に電話を逃した。紗月が明け方まで書いた日は、怜司の朝の電話が消音のまま過ぎていく。現地の会議に入れば、紗月の夕食の写真は、何時間も既読にならない。初めの一週間は、長く理由を説明した。〈会議が予定より延びた。スマホはバッグに入れていた。今は宿舎〉〈花音さんと夕飯を食べて、会社で原稿を見ながら寝てしまった。ほかには何もなかった〉二週目には、短くなった。〈遅くなる。先に寝て〉〈締め切り中。明日、電話する〉短い言葉が、無関心ではないと覚えるには、数日あればよかった。問題を作ったのは、二人より先に、外の人間だった。午前の会議のあと、花音がスマホを持ってきた。「先生、これも、対応しませんよね?」空港で撮られた怜司の後ろ姿と、食事会の写真が並んでいた。〈再婚一か月で、別居生活? 作家・汐の夫、単身出国〉中身は、ほとんど疑問符だった。すでに別居しているのでは。怜司が会社を追われたのでは。根拠のない推測が続いていた。「赴任だということは、説明してもいいのでは?」「うちの社員ではないのに、なぜ汐文コンテンツが説明するんですか」「では、先生のアカウントで?」「今日は、新作の表紙を出す日です」広報からは、検索数の増加を宣伝に使おうという案も来た。表紙公開の文に『再婚後、初の作品』とつければ、反応が大きいだろうという。紗月は、一文で返した。〈作品は、私の結婚の後日談ではありません。元の紹介文を使ってください〉返事を見た花音が聞いた。「検索数、もったいなくありませんか」「もったいないです」「それでも?」「もったいないからと何でも使えば、また、自分の名前をどこにつけるか、他人に決められるでしょう」花音は説得を続けず、元の公開予定を確定した。紗月は予約していた投稿を、そのまま出した。最
翌日の食卓には、三つの選択肢が並んだ。怜司が赴任を断る。紗月も半年間、一緒に行く。それぞれの仕事を続け、離れて暮らす。紗月は紙の上に、四つ目を書き足した。〈期間と勤務形態を、もう一度相談する〉「会社が変えてくれるかな」「聞く前には、わからないでしょ」その場で怜司は担当役員へメールを書いた。期間の短縮、一時帰国、遠隔勤務の可否を確認する内容だった。送る前に、紗月へ画面を差し出すことはなかった。「書けた?」「うん。見る?」「いい。怜司のメールだから」翌日の返事は、半分だけ可能というものだった。全体は六か月必要。ただし四か月目からは、毎月一週間を東京勤務にできる。最初の三か月にも、業務に支障のない範囲で一度帰国できる。紗月も自分の予定を開いた。新連載の準備と海外配信の確認が重なり、二か月以上、会社を離れるのは難しい。原稿だけ持ってついていくことはできても、そうしたくなかった。取り戻した会社と暮らしを、また誰かの予定に合わせて畳みたくはなかった。「私は、ついていかない」怜司は理由から聞かなかった。「わかった」「寂しくない?」「少し」正直な答えに、紗月は彼を見た。「でも、嫌だと言っているのに、来てほしいとは言わない」「怜司は?」「行きたい。半年なら、やっていけると思う」紗月は三つ目の選択肢に、丸をつけた。離れて暮らす間の約束を決めた。毎日の通話時刻は固定しない。会議中や、文章が進んでいるときに出られなくても、その理由を証明しない。ただし、一晩連絡できそうにないときは、短く伝える。「ビデオ通話は?」怜司が聞いた。「顔が見たくなったら、そう言って」「週に何回?」「回数を決めたら、点検みたい」「じゃあ、会いたいほうから」「ひどい顔の日は、出ないかも」「それは、先に教えて」「どうして?」